第5報:《parataxis をめぐって》

第5報:《parataxis をめぐって》

及川廣信『村への遊撃 ー黒田喜夫に』より/2010 ©ICANOF


いよいよ間近に迫った記念公演《ギンリョウのたびだち》の第5プログラムが、都内からお招きするダンス・アーティスト及川廣信氏・作曲演奏の根本忍氏・セルパン奏者の橋本晋哉氏の三氏による『shiranuka + セルパンとライヴエレクトロニクスによる〈シララオイカ sirar.oika 〉』であり、なんと言ってもリセ創設者=豊島和子追悼公演のメイン・ステージとなるだろう。

及川廣信『村への遊撃 ー黒田喜夫に』より/2010 ©ICANOF

根本忍

橋本晋哉 ©Shinya Hashimoto

なにしろ、本公演が世界初演(ほかのどの作品も、そう言ってよければ、じつは世界初演なのだが、とりわけ八戸以外の土地でも再演される可能性が色濃いという意味でも世界初演)なのだから、ほかの大半の作品のリハーサルに立ち会っているこの私ですら、それがどんな作品なのか、予測も見当もつかない。前夜のゲネプロを観たとしても、やはり当日、10月23日の本番を観ない限りは、なんとも言葉にならないであろう。

しかし、キーワードは与えられてある。——— 音楽を伴うダンスでも、ダンスのための音楽でもなく、ダンス作品と音楽作品の〈parataxis=併置〉。このパラタクシスがそれである。「taxis=タクシス」とは、系統だった配列・分類・統辞法のこと。生物学では、外的刺激に対する一定の反応・運動を「走性(そうせい)」と言う。光刺激に反応してその方向へと体動する生物特性を「photo-taxis=光走性」、それが熱刺激による生物特性なら「thermo-taxis=熱走性」と言うらしい。それが言語学上は、その叙述(じょじゅつ)がどんなに複雑な構文であっても、一定の言説秩序に基づいていれば「taxonomy=分類学・系統学」と呼ばれ、博物学・歴史学一般に転用・汎用(はんよう)されている。問題は、接頭辞「para=副次的・傍系・錯誤・逸脱・異常」を有する点であろう。相異(こと)なる二つの構文を並列(へいれつ)する場合、「and・or・yet・however」など接続詞を挿入することによって連結するのが通例なのだが、このパラタクシスにあっては、そうした接続詞が脱落して、ニュアンスの異なる二つの文節が平然と接続するのである。「雨が降っている、私は外出する」というように。「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか、そこだけでは文意をうかがうことはできない。

うっかり分かりやすい例文を掲げたけれども、「雨が降っている、ひとは死出(しで)の旅支度(じたく)を整える」とか「夜空に花火があがった、私はお湯を沸(わ)かし始める」とかならどうだろう。いやもっと徹底して矛盾に満ちた並列があるに違いない。及川氏のダンスと根本氏の作曲演奏のパラタクシスにあっては、その接続詞の「脱失=アポストロフィ・揮発(きはつ)=ヴォラティリティ」を、今は亡きリセ創設者になぞらえることはできない。とはいえ百歩譲って、その場にいない、いたくてもいようのない数知れぬ死者たちを、接続詞の〈不在〉に見立てることくらいは、あっても不思議ではないだろう。それほどダンスと音楽の饗宴・競演は、古代ギリシア祭祀(さいし)劇以前にさかのぼる「アンシャン・レジーム=旧態依然」ではあれ、その脈々たる歴史性を避けがたく、とくに「レジーム=regime」には統治体制のみならず、フーコーの言うような「自己への配慮・養生(ようじょう)法・主体たりうる自己陶冶(とうや)の航海術=エルメヌテーク」が含意されているからである。

それでもなお、及川ダンスと(セルパン演奏の第一人者、橋本晋哉氏をフィーチャーした)根本音楽とが「パラタクシス」を強調する理由は、ただ単にダンスと音楽が別々に同時展開するライヴ・パフォーマンスというだけではなかろう。それぞれの身体性の「切断」はもとより、観客にとってどれほど一体感のある時空間ではあれ、ステージ上での出演者にとって〈内在的な時間性・空間性〉の切断と「再—縫合」が不可欠だからではないだろうか。観客が真に触発されるとしたら、それはこの内在的な時空の〈離接の強度〉を喚起される場合ではないだろうか。

及川廣信『村への遊撃 ー黒田喜夫に』より/2010 ©ICANOF

もっと分かりやすく言えば、私たちが観るステージは、シンクロニック=共時的、かつディアクロニック=重層時間的な空間であるのだが、あくまでその双方を通して、決してその双方を失うことなく、もうひとつ、ヘテロクロニック=異時間性の露頭(ろとう)の一瞬に立ち会う、そういう幸運もまた予告されているのだ。いち早く、その幸運に浴(よく)するのは、むろん亡きひと、60年もの舞踊人生を多くのリセエンヌとともに歩行してきた豊島和子にほかなるまい。そして私たちもまた。

* 去る10月19日付け東奥日報紙面に、詩人谷合吉重さん執筆による事前公演期待の一文『事後性の愉楽(ゆらく)』が、つづいて翌20日付けデーリー東北紙面に、都内でルーツミュージック芸術祭を実現している市民アート集団バスキングジャパン代表の戸田昌征さん執筆による事前公演期待の一文『詩魂の血脈「ひかり」に』が、掲載されました。併読をお勧めしたい。

(20th. Oct. 2011 現ダンスバレエリセ主宰 豊島重之)

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投稿日: 10月 20, 2011 | カテゴリー: Uncategorized | パーマリンク コメントする.

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