第7報:《LSとLLLほか先行掲載》

第7報:《LSとLLLほか先行掲載》

教えることは教えられること、けだし、至言(しげん)である。

リセ創設者、豊島和子追悼写文集『ギンリョウのたびだち』に寄稿してくれた(毎年、リセのBallet Classique作品を御指導いただいている)石井久美子先生の追悼文のなかにも出てくる、とても触発的なひとことである。ことのほか、当日の舞台写真=追悼作品『人称と所在 /locus solus ロクスソルス(略称LS)』と『Left Long Left /置き去りに、かくも長き(略称LLL)』の二作を中心とした数点が手元に届いた(先行してデータをセレクトしてくれた撮影スタッフのお三方に感謝したい。著作権・肖像権はもとより無断転載・悪用といった不毛なトラブルを回避するためにも、いっさいの責任を負う「ダンスバレエリセ提供」を明記する)矢先、この数点を一瞥(いちべつ)することからも、冒頭のひとことが容易に納得させられるかもしれない。

ちなみに『人称と所在』の副題は、20世紀前半のフランスの作家レーモン・ルーセルによる、とびきり風変(ふうが)わりな小説の題名を小文字化したもの。「location」のラテン語「locus ロクス」と「solitary」のラテン語「solus ソルス」に由来する『孤高の地』。生きてしある限り誰もがいつかは直面することになる〈人称性と所在性の解離〉と、ある晴れた日、私でもあなたでもない何処かの誰かに突然訪れるだろう〈非人称性と非所在性の交差〉。10月23日の公会堂のステージでは、まさしく故人を偲(しの)ぶ佳作に仕上がっていた。リセエンヌ6名の健闘を称(たた)えたい。

『人称と所在(略称LS)・1』 左から長谷部岬・大久保良美・中野渡萌・平船果凛・田中幸乃・佐々木萌衣の6名。©DANSE BALLET LYCÉE

『LS・2』 田中幸乃(下)・佐々木萌衣(上)。©DANSE BALLET LYCÉE

『LS・3』 中央に立つ中野渡萌ほか。       ©DANSE BALLET LYCÉE

教えることのできるひとが、一番、教えられることができるという、いかにも他者が考慮されていないかに思える位相では、「自己言及・自己参照=self referential セルフ・レファレンシャル」の回路は閉ざされてしまいかねないけれども、それはひとえに「教えること」ができるひとだから、なのか、それとも「教えられること」ができるひとだから、なのか、端的(たんてき)にどちらが先行しているのか、それとも後発(こうはつ)的な時熟(じじゅく)が、翻(ひるがえ)ってそう言わしめているのか、この問いかけにすぐさま答えられるひとは、そう多くはいまい。いずれにせよ、他者性なしの「自己言及」・時熟なしの「自己参照」というのは考えにくいと言うべきだろう。

時熟とは、木の葉が枝からハラリと落ちるように、ときが熟するのをひたすら待つこと、それぞれ人も違えば機が熟する度合いもそれぞれ異なるのだから、常にその場に居合わせながら、むしろ背中ごしに「そのとき」を見のがさぬこと。それでもその人を滅多(めった)なことでは訪れることのない「そのとき」、それを時熟というのである。

10月23日の舞台写真を御笑覧あれ。たとえばリセアン久保田祥貴(よしたか)くんのソロ『微生物バロック』の凛々(りり)しいジャンプには、先輩リセアン千葉馨(かおる)くんが全国コンクールで第一位グランプリを受賞したソロ『室内劇』の幸運にも似た萌芽(ほうが)が確かにある。

久保田祥貴『微生物バロック』 ©DANSE BALLET LYCÉE

とはいえ、受賞後四年もレッスンを欠かさず2010年12月ソロ『獲物の作法』に到った馨くんなりの〈時熟〉には、まだまだほど遠いはず。同様に2010年ソロ『アレクサンドリアの詩(うた)』を凌(しの)ぐ中野真李(まり)ソロ『わが谷 緑なりき』は、その哀感と品位がスケール感の深まりをみせたし、

中野真李『わが谷 緑なりき』©DANSE BALLET LYCÉE

これまでの『須弥山花』や『龍の舌』の主題とは打って変わった都会的サスペンスに挑んだ長谷部岬は、今回のソロ『carboncopy building』で表現力の幅を大きく拡げた。

長谷部岬『carboncopy building』©DANSE BALLET LYCÉE

そして『dead crossing』から『asphalt babylon bis』へと着実に変貌しつづける田中幸乃

田中幸乃『asphalt babylon bis』 ©DANSE BALLET LYCÉE

はたしてこの4名に〈時熟=じじゅく〉を期待してよいものか、むしろその〈未到来=みとうらい〉にこそ賭けるべきなのか。

教えることは学ぶことだ、という、似たような言い回しもよく目にする。「教えられる」が「学ぶ」に言い換えられたにすぎず、なんら変わりばえしていないかにみえるが、この場合は「学ぶひと」という他者性が、少なくとも前段の言い回し以上に強調されているのは明らかである。とはいえ、この在り方にあっても、自己言及の回路にいつしか他者性が取り込まれてしまっていて、真の意味での〈他者性〉が排(はい)されている怖れがなくもない。自己言及の回路の随処(ずいしょ)にいくつもの破れ目をもたらすのは、教えることと学ぶことの避けがたい「非対称性=asymmetry アシンメトリー」だからであろう。その点では、「Left=左」という非対称性を「Left=置き去り・放置」へと意味変換させた、田島ら4名による追悼作品『Left Long Left /置き去りに、かくも長き(略称LLL)』は、つづく5プロの及川さん根本さん橋本さんによる追悼作品『shiranuka + シララオイカsirar.oika 2011』の舞台(続報で触れる予定)をお迎えするにふさわしいサスペンスフルな佳作となった。

『LLL・1』 左から佐々木麻友・秋山容子・西塚由佳・田島千征の4名。©DANSE BALLET LYCÉE

教えることと、学ぶことには、決定的な断絶と不等号がある。すでにミシェル・フーコーが1981〜82年、コレージュ・ド・フランスでの講義録で特筆してはいるが、誰が先に述べたかは問題ではない。教えるひとと、学ぶひとが、まったくの別人である以上、教えたからといって、それを学べるとは限らないからであり、至極(しごく)真っ当(とう)な大前提である。この『LLL』においても演出の豊島と振付け構成の田島とのあいだで、その田島と出演者の西塚・佐々木・秋山とのあいだで、度重なるミーティングとリハーサルが繰り返されたものの、私を含む5名の内心を貫いたのは、教えることは不可能であり、かつ、それ以上に学ぶことは不可能であるという事態であった。にもかかわらず、いわば冬日が差し込むように、教えることと学ぶこととが、その不可能性をかいくぐって体現していったのである。

『LLL・4』 西塚由佳のクロースアップ。©DANSE BALLET LYCÉE

『LLL・5』 左から佐々木麻友・秋山容子。とくに秋山の表情が今までになく冴え渡っている。©DANSE BALLET LYCÉE

そう言ってよければ「ダンス的パレーシア」であろうか。フーコーが古代ローマ・ヘレニズムの自己修練法・主体航海術に見出した「パレーシア parrhesia」とは、率直な語り口、聴いてくれる人に心を開いた「リーベルタース=自由な」語りかけのことです。古代ギリシア以来の「雄弁術=レトリック」のロゴスや「自由度を欠いた追従(ついしょう)」とはまったく異なる、きわめて「身体的なレクシス=話法」であって、そこがダンスにも繋がる理由です。「パレーシア parrhesia」はもはやどんな辞書にも載っていないが、「パルランス・パルランドー=口調・話法・歌手の朗唱 parlance/parlando」にその残滓(ざんし)をうかがえるのみ。フーコー的な主体の航海の「前途多難」に対して、のちにデリダが「salut サリュー/道中、御無事で!」と応答したことは、もう繰り返すまでもあるまい。

LLL・2』 西塚由佳のラストシーン。©DANSE BALLET LYCÉE

田島千征のラストシーン。©DANSE BALLET LYCÉE

(3rd. Nov・2011:現ダンスバレエリセ主宰 豊島重之)

広告

投稿日: 11月 5, 2011 | カテゴリー: Uncategorized | パーマリンク コメントする.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。