リセ第10報: 《豊島和子のダンス・補遺(ほい)—— 北東北と北海道南部》

《豊島和子のダンス・補遺(ほい)—— 北東北と北海道南部》
及川廣信 OIKAWA Hironobu (舞踊家・身体表現思想・アルトー館主宰)

* この論考は、2011年10月23日/ダンスバレエリセ刊行『ギンリョウのたびだち 〜豊島和子追悼写文集』所収の及川廣信『〈風・土・水〉の底にあるもの—— 豊島和子のダンス』との併読が期待されています(編者)

(1) 陸奥横浜行き

和子さんが教員の父親の赴任先、下北半島の太平洋岸の白糠(しらぬか)で生まれ、五歳になって今度は半島を横切って陸奥湾沿いの陸奥横浜(むつよこはま)に移住します。その年、のちに画家となる弟の弘尚さんが生まれる。そこで、父親が旧制八戸中学に転任するまでの少女期を陸奥横浜(と田名部)で過ごすことになるのですが、この五歳という言語意識が芽生える多感な少女期は、のちに舞踊家となる和子さんにとってきわめて重要な身体記憶を形成したに違いありません。今年6月の八戸滞在時に、和子さんの生地白糠を訪れたからには、この陸奥横浜町という風土も訪(たず)ねてみないことには、どうにも気持ちが落ち着かないのです。

そもそもの始まりは、3月の大震災直後に急逝された豊島和子さんのお墓参りでした。日本現代舞踊史には捉えきれない、いわば最果(さいは)ての舞踊家でもあった和子さん。八戸市公会堂で10月23日に開催される追悼公演のための、作曲家の根本忍くんと私の共同作品の打ち合せを兼ねた八戸滞在でした。もちろん、郷里の被災状況が心配だということもあり、津波にのまれた鮫・蕪島・沼館など沿岸部の瓦礫(がれき)の凄(すさ)まじさを見て廻ることもできました。また、青森市まで足を延ばして伊藤二子(つぎこ)さんの個展が開かれていた青森県立美術館にも往復できました。最終日に私独りで白糠探索(たんさく)を終えて、東京での仕事のため急いで帰ったのですが、この陸奥横浜のことがどうしても心残りでした。それで半月後、また私は単独で陸奥横浜に出掛けることにしたのです。

実際に訪ねてみると、白糠が凝縮(ぎょうしゅく)された地域、漁村の点景だとすると、この陸奥横浜は拡散(かくさん)された地域、港湾としても規模の大きなエリアなのです。現在むつ市の大湊(おおみなと)は、かつて重要な軍港でロシアに対する北の護(まも)りの役割を持っていたのですが、陸奥横浜はその広がりの延長上にあった町なのでしょう。
そのあまりの広がりに途方に暮れた私は、ひとまず町のタクシーを頼んで主(おも)だった箇所を廻ってもらうことにしました。一番に当たりたい箇所は父親の勤務していた中学校と、和子さんと弘尚さんの学んだ小学校です。しかし確(かく)たる学校の名を、私は両方とも知らないのです。タクシーの運転手さんの話によると、小学校は四つあるそうですが、今は統合されて、みなコンクリートの建物になっていて、昔の小学校の面影はすでに無いとのこと。そう説明した後、ちょっと考えてから「ひとつだけ、昔の中学校と小学校が同居していた廃屋(はいおく)と校庭が残っていますが」。それだ! 思わず、私は咄嗟(とっさ)に叫んだのでした。

その目的の学校は駅からだいぶ離れたところにありました。かなり大きな建物で、校舎はすでに倒れかけ、林に囲まれた広い校庭は一面に雑草が茂ったままでした。これは実際に父親が担当した中学と二人の子が学んだ学校とは違うかもしれない。しかしコンクリートの建物に変えられたものより、この方がもっと当時の面影を持っているに違いない。いささか興奮した私は、この崩壊寸前の学校の前にしばらく立ち尽くしていたのです。
それはヴァルター・ベンヤミンのいう、過去と未来を含んだ〈廃墟の美〉のようでした。八戸移住前の豊島一家の残像をそこに、私個人が勝手に描いていたのかもしれませんが、この建物は、ロラン・バルトが『明るい部屋』で語ってくれた、〈写真に映る過去の痕跡〉となる日を、ここで待っていてくれたようでした。

陸奥横浜町の廃校にて 2011年/撮影及川廣信

豊島和子ソロ『千のティンガラ(星の雫)』2009年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

(2)「円筒式土器」文化圏と海洋文化圏

白糠とこの陸奥横浜を、日本ぜんたい、また東北の中での配置から見た場合、あらたな視野が生まれてくるのかもしれません。

考古学の学界では、1960年以降の縄文時代の土器の研究の結果、同じ東北でも北東北と南東北とは縄文・弥生の別を越えて、それ以前にすでに決定的な文化の差があることが分かってきました。それは北東北の「円筒式土器」と南東北の「大木式土器」の発掘された分布図によって分かってきたことです。その北東北と南東北の境界線というのはどこかというと、秋田市・田沢湖・盛岡市・宮古市を結んだ線であり、そしてこれは地質学的な「フォッサマグナの線」でもあるのです。
そして意外なことに、この円筒式土器の調査を発端として、北東北が北海道南部と共通した縄文文化の下で交流していた歴史が判明したのです。そのことが後につづいた黒曜石(こくようせき)などの石器の遺跡出土によって確認され、また竪穴(たてあな)住居跡の相似(そうじ)も見出され、この両者の交流が津軽海峡を渡る丸太舟(まるたぶね)によって行なわれていたのではないかというのです。

まさしく海洋日本の象徴がこの歴史的現実に表われています。大和民族による七世紀以後の北に向かっての政略は、陸路による侵攻(しんこう)でした。交渉と武力によって城柵(じょうさく)の設置と律令制(りつりょうせい)の実施を拡大させ、それに抵抗し、従わぬものを蝦夷(エミシ)と命名したのです。
宝亀5(774)年の蝦夷の反乱を契機に陸奥国(むつのくに)に大反乱が起き、最終的に、胆沢(いざわ)城を拠点とした坂上田村麻呂将軍が延歴21(802)年に、やっと反乱を鎮圧(ちんあつ)し、蝦夷の豪族たちを統治下に置きます。
桓武(かんむ)天皇の二大政策というのは、平安京の造営(ぞうえい)とこの東北の蝦夷(エミシ)対策でした。この段階で、律令政府の陸奥支配範囲が確立したのですが、その線が、前述の南東北と北東北を分離する線と一致するのです。

津軽半島と下北半島とが「外が浜(現・陸奥湾)」を股(また)にかけて文化交流していたのも、前述した「円筒式土器」文化圏という、北東北と道南を貫いていた大きな文化圏の中でのことでした。それは南部藩と津軽藩が分離する以前のことです。田村麻呂の攻略(こうりゃく)と無関係ではない「津軽のねぶた祭り」が下北半島でも行なわれているという現象は、この歴史を示しているのです。
そして白糠が単に孤立した一寒村ではなく、かつての縄文の時代には、このあたりを中心に大きな集落をつくっていたこと、また陸奥横浜も、かつて北の海洋文化圏の中心地の一つであったという地政学(ジオポリティクス)を考慮に入れないと、表層的な判断に終わってしまうのでしょう。

「外が浜=陸奥湾」遠望 2011年/撮影及川廣信

及川廣信ソロ『白糠 shiranuka ——豊島和子に』2011年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

(3)馬産地と会津藩士

ここでもう一つ、明治維新(いしん)以後に、下北半島に関わる大きな史的事象(じしょう)を追記しておきましょう。

戊辰(ぼしん)戦争で敗れた会津藩は、薩長の勝利者がつくった新政府によって、明治3年、この下北地方(ほかに飛び地として青森県三戸町、五戸町、新郷村、それに十和田市の一部と岩手県二戸市の一部も合わせて)に移封(いふう)されて、斗南藩(となみはん)となっていたのです。
むつ市に円通寺(えんつうじ)という寺がありますが、強制移住させられた会津藩は斗南藩と改称され、石高(こくだか)を名目(めいもく)3万石(実際は7千石だった)に削られ、当時3歳にも満たない松平容大を擁(よう)して、この円通寺を藩庁(はんちょう)としたのです。その前に一時、五戸に置かれていた藩政をこの寺で開くことになるのですが、その一年後の明治4年、廃藩置県(はいはんちけん)の政令によって、1万7千余の藩士と家族はそれぞれ四散(しさん)し、苦難の道を歩むことになるのです。

下北半島の北東部突端の尻屋崎(しりやざき)にある灯台の周辺には牧場が広がり、ここに放牧(ほうぼく)されている馬は寒立馬(かんだちめ)と呼ばれています。厳しい寒気と粗食に耐え、持久力(じきゅうりょく)に優れ、小柄であるが、見るからに冷風に鍛(きた)えた凛(りん)とした風貌(ふうぼう)を持っています。太平洋側の下北半島東部は、寒流とヤマセと呼ばれる北東からの冷たい風のせいで、日本海側のような雪が積もらない代わりに寒さはより厳しいのです。

海に囲まれた下北半島の人々にとって、狩猟・採集文化とともに、最も重要な生業は漁業でした。中世以降になると、これに海運(かいうん)による物資の交流が加わり、下北の物産が日本各地に出回るのです。まずその頃の一番、価値のあるものは金銀の次に馬なのです。南部地区の一戸から九戸までの地名は、馬を飼い囲う柵(さく)のあった牧(まき)のことであり、戸(ヘ)はその柵を意味します。
室町幕府までは、その地は糠部(ぬかのべ)とよばれ、名馬の産地として知られていたのです。源平合戦の宇治川の先陣争いで知られる名馬、磨墨(するすみ)は三戸産で、生唼(いけづき/のちに池月とも別称)は七戸産といわれています。
そもそもが、これらの馬を飼育した南部藩は、最初、馬を求めて甲府の武田藩の一族が船で太平洋を渡って八戸の種差(たねさし)海岸に着き、八戸根城(ねじょう)から三戸、盛岡へと移動した後、徳川幕府の政略によって盛岡南部と八戸南部に二分(にぶん)されたのです。この馬を求めて船で移動した歴史的事実を、作家の司馬遼太郎氏は歴史のロマンとして讃(たた)えています。

牧場がつくられたのは13世紀頃だと思いますが、これは焼畑(やきはた)農法と関連しています。山や雑木林を刈って焼くことにより、鹿や熊や猪などの野獣を捕らえ易くなるだけでなく、焼いた跡地を畑にして植物や根菜(こんさい)を植えることによって、生活のための定着耕地をつくることができたのです。このようにしてソバ、ヒエ、マメ、ダイコン、カブラ、サトイモなどが育成され、自然採取から自然管理へと定着した生活が始まるわけです。馬の放牧も雑木林を焼いて広がりをつくり、そこに生える草を食(は)ませ、柵を造って囲い、良い馬を育成する工夫が行なわれたのです。

及川廣信ソロ『白糠 shiranuka ——豊島和子に』2011年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

ダンス及川廣信(左)、作曲根本忍(奥)、セルパン演奏橋本晋哉(右)の三氏による『セルパンとライヴエレクトロニクスのための〈シララオイカsirar.oika〉』のステージ 2011年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

(4)南部・津軽・会津魂のハイブリッド

さて、食べ物として中世以降の北東北の人たちは何を食していたのでしょうか。肉は狩猟で得た鳥や熊、鹿、猪などでしょう。その後、縄文の次に南から北上してきた弥生文化のお米の耕作によって主食を得たのですが、この焼畑による畑作技術については、とりわけ北東北のなかの下北半島は、焼畑が稲作より早かったのはもちろん、稲作文化流入以降も焼畑文化の方が長らく優勢だったようです。
そして漁𢭐(ぎょろう)こそが自分たちの食生活の中心をなしていただけでなく、中世から近世にかけて海運による食の物産品として昆布、鮭、ナマコ、アワビ、フカヒレなどが下北の大湊(おおみなと)から廻船(かいせん)によって日本各地に送られていたのです。18世紀後半には長崎会所(かいしょ)が下北の豪商にナマコ、ホシアワビ、コンブの集荷(しゅうか)を委託(いたく)した記録があります。また、下北半島の内陸部はヒバ(ヒノキ)の森林地帯であり、江戸時代には上方(かみがた)・江戸からのヒバの需要が多く、それが南部藩の財源となっていたのです。
三沢に日本初の近代的な民間洋式牧場を開設した廣澤安任などは、その会津藩士の成功者の一人ですが、その廣澤一家の他にも多くの会津藩士が八戸に移住しています。私の小学時代の神田八戸市長も、南部家の菩提(ぼだい)寺である南宗寺(なんしゅうじ)の田口和尚も会津藩士の子孫です。そのほか大勢の会津藩士が明治以後の八戸の文化に関わってきたのです。

八戸高校の元の旧制八戸中学は「文武両道」をモットーに掲げていたのですが、毎年、柔・剣道の東北大会では優勝していました。八戸藩士の伝統は同じ南部の新渡戸稲造(にとべいなぞう)の「武士道」に通じるものがあります。ただし、斗南藩(となみはん)も維新後は会津藩と同じ運命を辿(たど)ることになりますが、この地に会津魂(あいづだましい)との結びつきが潜在(せんざい)しているような気がします。八戸の文化は、最近もてはやされている「横町文化」だけではないのです。

下北半島から八戸の長者山(ちょうじゃさん)下に移住した和子さんは、上記の南部と津軽と会津の混合した文化的環境の中で育(はぐく)まれてきた舞踊家なのだ、ということを私は考えたいのです。和子さんが半世紀を暮らした町名は、山伏小路(やまぶしこうじ)に隣接する古常泉下(ふるじょうせんした)でした。常に泉が湧く「常泉」とは、明らかに山伏修験や義経伝説の発祥地(はっしょうち)たる「長者山」の別名に違いありません。
それに関連して、島守集落(現八戸市南郷区)の「福一満虚空蔵菩薩(ふくいちまん・こくぞうぼさつ)」を訪れました。この島守菩薩堂は、京都嵐山の法輪寺と福島の円蔵寺とあわせて「日本三大虚空蔵菩薩」の一つとされていて、それだけでも北東北の海洋文化圏に加えて「山岳神霊圏(しんれいけん)としての地の利」を推測させるに足(た)るものでした。そのうえ堂前に配された平重盛(たいらのしげもり)像をどう捉えたらよいのでしょうか。これについては、すでに弟の重之さんがモレキュラーのサイト:molecular-theatre.jp(11月9日付け『島守探訪ノート』)に触れているので、私としては別の機会に論及することにしましょう。

ともあれ、和子さんのダンスを、北東北と道南という縄文以来の歴史的文化圏の海洋的スケールにおいて、しかもエミシや会津藩士が根づいた苛酷(かこく)にして豊穣(ほうじょう)なる風土において、あらたに捉え返そうとする思考の一端(いったん)を述べておきたいと思います。

豊島和子ソロ『お背戸に木の実が落ちる夜は』2007年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

及川廣信ソロ『白糠 shiranuka ——豊島和子に』2011年/撮影惣門 © DANSE BALLET LYCEE

(2011年11月20日 筆者及川氏の校閲、サイトUPの御了承を得たものです)

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投稿日: 11月 23, 2011 | カテゴリー: Uncategorized | パーマリンク コメントする.

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